二つの円空展 - 1980 & 2025年
円空(1632~1695年)は、江戸時代前期の流浪の修験僧にして、仏師、歌人でもあり、ユニークな作風の"円空仏"と呼ばれる木像を各地に残したことで知られている。かつては、円空は少々怪しい放浪の仏師のイメージが強かったようだが、昭和30年代から一般の人々にも知られる存在になって円空ブームが起き、円空に関する展覧会が断続的に各地で開催されている。そして、円空研究の進展とともに、美術品としての円空仏ばかりでなく、僧円空の人生にもスポットライトが当てられ、円空の全体像を探る試みが続いている。個人的には、江戸時代初期に円空が未開の北海道で仏像を造顕した事実があり、その動機はどのようなものなのかと、道産子として関心を持ち続けていた。
■二つの円空展
このような状況の中で、1980年に朝日新聞社が新宿の小田急百貨店で、"野性の芸術 円空展"を開催した。北海道から福岡まで各地に散在する円空仏を展示してあまねく円空仏の美にひたると同時に、その宗教の系譜を明らかにすることが、この展覧会の趣旨とのこと。実際には、実に多種多様な円空仏(仏像や神像、狛犬に至るまで円空の作品は円空仏と呼ぶことにする)が展示され、円空仏の全貌を広く世間に知らしめることに重点が置かれていた。ここで道内で作られた初々しい作風の観音像に漸く対面した。

次に円空仏に邂逅したのは、2025年に三井記念美術館が開催した"特別展「魂を込めた円空仏 -飛騨・千光寺を中心にして-"だ。これを言い換えると、円空が樹木に仏や神を感じ、魂を込めて彫刻した姿を、岐阜の木像を中心に展示したものだ。地域は限定されるが、大きなものから小さなもの、彫刻技法の荒いものから精緻なものまで鑑賞でき、円空仏の奥深さを感じさせる展覧会だった。


現在までに発見された円空仏は、小さな寺院や神社を中心に、民間の個人宅にも散在している。展覧会によって、円空仏を拝観できる機会は有り難い。また、別の切り口のテーマで開催されることを期待している。
■最近の円空研究のアプローチ
円空が辿った足跡は、木像の裏書きや、滞在先の寺院などの記録で断片的に残っているだけなので、ちょうど点と点が独立して存在しているようなもので、円空の活動履歴を推定するのは難しい。現在までに、約5400体の円空仏が発見され、その分布は岐阜県や愛知県を中心に、北は北海道、青森県、南は三重県、奈良県が多く、広い地域に散在している。そのため、円空に関する研究においては、新たな発見された個々の作品がどのような位置付けにあり、どのような意味を持つのかを考察するのは容易でない。
この難題に対し、現地の円空仏を訪ね、その裏書きや滞在先の記録、そして約1500首の和歌からなる円空歌集を素材として、これらの関連を推定し、点と点を結び線にする手法で探求した研究者がいる。円空学会前理事長の長谷川公茂氏(1933~2023年)である。氏は画家だったが、円空仏に魅せられ、美術的な美よりも宗教的な美を感じ、円空研究にのめり込んだ。著書の一つ"円空仏"(保育者カラーブックス、1882年)には、人間円空のエピソードや心情が溢れていて、美術品の円空仏に魂が吹き込まれたような気がする。

また、哲学者の梅原猛氏(1925~2019年)も"歓喜する円空"(新潮社、2006年)を著し、円空を日本人の宗教思想を芸術表現にまで高めた文化史上の重要人物と評価した。梅原氏の取材の様子は、テレビや雑誌で時々公開され話題になったことを思い出す。
■生涯
円空を知る第一歩は、その生涯を辿ることだ。概要は、次の通り。
・1632年、現岐阜県羽島市生まれ。7歳のとき、木曽川洪水で母を亡くし、孤児となる。某寺に引き取られ、修験僧となって、仏像や神像を彫る"作仏聖"の道を歩み出した。
・32歳で、最初期の木像"天照皇太神像"など3体を神明神社(岐阜県)で造顕。
・35歳:津軽から北海道に渡り、現十勝の広尾町、洞爺湖、後志寿都町などで、観音像を創る。
・38歳:名古屋の鉈薬師堂の諸仏、岐阜の白山神社の白山三尊を造顕。
・40歳:奈良法隆寺より"法相中宗血脈"を受ける。僧侶としても評価されたようだ。
・43歳:三重県三蔵寺の"大般若経"の添絵54枚を描く。画風は木像同様だが、簡素化されて柔らかくなり、棟方志功風ですらある。
・45歳:名古屋市荒子観音寺で、仁王像、千面菩薩など、千数百点を造顕。
・48歳:園城寺より、"仏性常住金剛宝戎相承血脈"を受ける。
・49~51歳:茨城県笠間、群馬県富岡、栃木県日光などで、神像や仏像を造顕。
・53歳:岐阜県関市・高賀神社を訪れ漢詩を詠む。
・54~58歳:岐阜県高山、羽島、茂県県米原、栃木県日光などで、造顕。
・58歳:園城寺より"授決集最秘師資相承血脈"を受け、自坊の関市にある弥勒寺が天台宗寺門派総本山園城寺の末寺になった。
・59~61歳:岐阜県高山、下呂、関などで造顕。
・64歳:弟子に血脈を与え、長良川畔でかねてからの願いであった入定を果たした。
何と壮絶な人生だろう。孤児となり、修行僧となって、各地を巡って社寺や人々のために造顕した木像が芸術の領域に達し、僧侶としても尊敬される立場になりながらも、また孤独のうちに死を選んだ。一体、何がそうさせたのだろう。凡人には、とても理解できない。
■技法と作風
三井記念美術館の円空展の中から、典型的な3つ作例から、円空仏の特徴を探ってみる。
(1)両面宿儺坐像(千光寺)
両面宿儺(りょうめんすくな)は日本書紀に登場する飛騨の逆賊で異形の怪物と言う説と、飛騨を中央集権から守った司祭者・指導者と見做す説がある。顔は2面、手は4本、斧を持ち、光背のある台座に腰掛けている。台座はごつごつとした塊の集合体であり、衣服の襞は深く流れるような線で刻まれ、光背は削り方を変えて渦巻く雲のように表現している。2つの顔は、他の部分と比較すると、凹凸が大きく、線刻のピッチも狭くなり精緻だ。正面の顔は穏やかだが、側面の顔は目がつり上がって唇が少し開き加減で厳しい表情に見え、その対比が面白い。円空は地元の英雄の伝説を思い浮かべながら彫ったのだろう。円空の最高傑作と呼ばれているのも納得。
(2)護法神、金剛神立像
千光寺の2体護法神立像と飯山寺の2体金剛神立像が写真撮影コーナーに展示されていた。2mを超える木材を縦に4分割し、木心側を像の正面として彫り出している。6等身位の細身でスマート。体の部分は衣服の襞を大胆に鉈で削り落として表現し、手や笏(しゃく)も大雑把な表現で直線的。しかし、頭部は柔らかな曲線が支配的になり、穏やかな顔立ちになる。この対比が際立つ。これら4つの立像は同じ木から彫られたとの説もある。樹木に樹神を観て造顔する円空の姿が浮かぶようだ。


(3)三十三観音立像(千光寺)
これも写真撮影コーナーに展示されていた千光寺の三十三観音立像。これらの観音像は、近隣の住人が病気の際に、その平癒を願い持ち出された。観音像のデザインは、衣の左右両端を鰭状に伸ばし、両手を衣の下から胸の前に出し、その上に頭部がある。像高は60~80cm程度で、これに相当する木材を利用するが、材料にはばらつきがあるので、完成した像のバランスは自ずと少しづつ異なる。しかし、よく見ると顔の形は丸いのやら、四角いのやら、下膨れなど、それぞれ個性的なものになっている。眉や目は浅い線で彫られているが、鼻や頬の下は少し深く削られて立体感を与えると同時に、優しい表情を作り出している。一体ごとに異なる印象を与えられるのも、仏師としての技量なのだろう。


円空仏の多くは、少し張り出して見える頬、その下に続く丸い顎、そして横長の柔らかそうな唇をもっており、これらの要素が”微笑みの円空仏”を具現化しているように思う。
■共感と謎の円空
円空以前の仏像は、支配層の貴族や武士の文化を反映した表現様式で、仏師集団が分担して造顕されてきた。円空仏は、このような枠組みの外で、社寺や民衆のリクエストに応じ、個人の創造力を頼りに円空仏を彫った。その結果表現された円空仏の素朴でありながら力強い表現は時代を超えて、我々現代人にも理解できるものだ。壮年期の円空の活動は、日本人なら大いに共感するのだが、行脚の始めに何故未開の北海道を選んだのか、そして最後は何故入定したのか、円空には未だ謎が多い。


