荒幡富士 - 神社合祀の象徴

 狭山丘陵の尾根伝いを東へ八国山緑地に行く途中に小高い丘があり、そこに所沢市民の散策スポット荒畑富士市民の森がある。その中に荒幡浅間神社(正式名には単に浅間神社)があり、その境内に荒幡富士はある。荒幡富士は、富士塚と呼ばれる人工的に造られた築山で、麓から約18mの高さのミニチュア富士で標高は119mだ。江戸時代に富士山に対する浅間信仰が盛んになり、関東地方の各地に富士講と呼ばれる組織が作られ、その地に富士塚が築かれた。短い山道を登り頂上に立つと、本物の富士山を拝むことができる。荒畑富士も富士講の産物なのだろうと思っていたが、否、実はもっと深い事情があった。

■歴史的背景と成り立ち
 明治維新になると仏教は廃仏毀釈によって壊滅的なダメージを受けた。一方、神道は国家宗教として発展していく。しかし、地方の小さな神社は八百万の神が信仰の対象であり、全国には膨大な数の神社が存在していた。近代国家を目指す明治政府は管理、信仰の両面から神社をスクラップアンドビルドする必要があった。このため、複数の神社を一つの神社に合祀して神社の数を減らして運営経費を削減すると同時に、地域で信仰の対象となる神様を一つにして氏子である住民の融和を図った。この結果、10年足らずの間に、全国的に約20万社あった神社の約3分の1が取り壊されたといわれている。これが明治の神社合祀だ。2023年のNHKの朝ドラ"らんまん"では、主人公牧野富太郎のライバルで当時の博物学者南方熊楠が、鎮守の森を守ろうとして神社合祀令の反対運動を起こしたエピソードが取り上げられていた。

 荒幡富士に隣接する浅間神社は、江戸時代に創建され、旧荒幡村(現所沢市荒幡地区)の総鎮守だった。明治5年(1872年)に村社となり、明治14年(1881年)に字浅間久保より松尾神社のあった現在地へ遷座、村内にあった三嶋神社(東本村)、氷川神社(西内手)、神明神社(田端)、松尾神社(西ヶ谷戸)を無格社として合祀した。そして、元の浅間神社の傍にあった富士講信仰のシンボル富士塚も、移転し造り変えることとなった。

浅間神社の本殿正面 (2024年1月5日 浅間神社)

浅間神社と合祀された無格社の祭神 (2024年1月5日 浅間神社)

 新しい富士塚は移転前よりも大きなものを目指して、明治17年(1884年)に起工し、15年を要して明治32年(1899年)に竣工した。この工事には村内の氏子や信者のみならず近隣の村々の有志も加わって共同体としての意識を共有しつつ、近郷近在に誇りうる最大級の人工の富士が完成した。その後も大正12年(1923年)の関東大震災、第2次大戦後の荒廃、平成23年(2011年)の東日本大震災などに遭遇しても、その都度修復が行われ現在に到っている。

■荒幡富士の魅力
 地元の所沢市民でも荒幡富士は手頃な散歩コースの一つと考えている人が多い。そして荒幡富士自体の魅力はと改めて問われると答えに窮してしまうのではないだろうか。ところが、多くの名所旧跡に詳しく酒と旅をこよなく愛した明治から大正期の文化人大町桂月は荒幡富士を絶賛している。彼の紀行文「狭山紀行」の中で荒幡の新富士(荒幡富士のこと)について述べている。

 "荒幡の新富士とて、このあたりにては有名なれど、未だ都人に知られ居らざるは、惜しきこと也。われ曾て、東京及び其附近にて、眺望のすぐれたる処を選びて、六個所を得たり。一、芝の愛宕山、二、品川の品川神社、三、市川の國府臺、四、立川の普濟寺、五、百草の百草園、六、この荒幡の新富士、これ也。其中にて、四方とも眺望あるは、この新富士のみ也。脚下に、一帯の狭山を見下ろし、遠く関東の平野を見渡す。西に富士、東に筑波。日光の山や、秩父の山や、甲相の山や、すべて寸眸の中に収まる。都人ここに来たりて、はじめて眺望の美をとくべし。感謝す。村民の賜物、亦大なる哉。"

 桂月は景色のみならず、荒幡の新富士を築いた村民の尽力を称えている。大正10年(1924年)には、大町桂月が文章を綴った「荒幡新富士築山の碑」が荒幡富士の鳥居の脇に建てられた。

大町桂月選文による「荒幡新富士築山の碑 」 (2024年1月5日 荒幡富士)

■荒幡富士登山
 それでは、いよいよ荒幡富士に登ってみる。最寄りの駅は西武狭山線の下山口。改札口を出て踏切を渡り、”荒幡富士”または”狭山丘陵いきものふれあいの里”の案内板に従い進み、柳瀬川を渡り坂を上がり西武園ゴルフ場のフェンスに沿って歩く。八国山緑地を目指し峰に辿り着くと、先ず狭山丘陵いきものふれあいの里が現れ、直ぐ隣に荒幡富士がある。荒幡富士は浅間神社の境内にあり、その本殿や拝殿の背後にある荒幡富士は浅間神社の御神体にあたるのだろう。

浅間神社(右)と荒幡富士(左) (2023年12月2日)

荒幡富士登山口の鳥居 (2023年12月2日)

 荒幡富士登山口の鳥居をくぐると木造の社と幾つかの石造物で小さな神社を構成している。先ず阿吽の一対の狛犬達が迎えてくれる。かなり年季が入っているようで、口を開いた阿形は顔が一部欠けている。少し奥には、左に猿田彦大神(サルタヒコ)、右に天鈿女大神(アメノウズメ)の名が刻まれた石碑がある。対になっているのは夫婦のためだろう。その奥に一対の神官の像がある。共に椅子に座った足を下に垂す様式から随身像のようだ。そして木造の社があり、その左側に石造の祠がある。

登山口の様子 (2024年1月5日 荒幡富士)

阿形の狛犬 (2023年12月2日 荒幡富士)

吽形の狛犬 (2023年12月2日 荒幡富士)

猿田彦大神の石碑 (2024年1月5日 荒幡富士)

天鈿女大神の石碑 (2024年1月5日 荒幡富士)

社の左前の随身像 (2024年1月5日 荒幡富士)

社の右前の随身像 (2024年1月5日 荒幡富士)

 この石の祠の左側面は一部欠けた部分はあるが、文字が読み取れる。"文化八年〇〇 正月吉日 造納 ”。文化8年は江戸時代末で 西暦1811年、荒幡富士完成の 88年前だ。そうするとこの小さな神域は、荒幡富士造成時には既に存在していたことになる。ここを起点に山を築き始めたのだろう。

造納時期のある石の祠 (2024年1月5日 荒幡富士)

  この小さな神域の背後に登山道がある。登山道はつづら折りの10本の道からなり、曲がり角には踊り場と何合目かを示す石の指標がある。登山道は狭く人一人が歩ける幅しかない。人がすれ違う時には、お互いが声をかけながら一方が踊り場で待機する。登山道では皆、善意の人になる。これは、富士山の霊力に違いない。

つづら折りの登山道 (2024年1月5日 荒幡富士)

登山道の五合目の指標 (2023年12月2日 荒幡富士)

 登山道を登り切り、先ず目に入るのは広い円形の山頂と、中央に置かれた石の祠だ。祠には"明治三十二年四月吉日 久米川石工 工藤堂寅之助”と文字が刻まれてる。明治32年(1899年)は荒幡富士が竣工した年なので、それを記念して置かれたのだろう。久米川は隣接する現在東村山市の一部で、近郷の人々も参加しての工事だっだようだ。

荒幡富士の山頂 (2024年1月5日 荒幡富士)

山頂の石の祠 (2023年12月2日 荒幡富士)

 いよいよ山頂からの景色だ。西側には展望図の看板があり、一目で山の名前と位置が分かる。本物の富士山は、多摩湖畔の中国割烹旅館掬水亭の横に鎮座している。富士の姿は天気次第、見えたり隠れたり、まるでお御籤のようだ。富士山までは幾つもの山々が重なり合っているので、森、山地、富士、空のグラデーションが見事で、これが荒幡富士からの独特の眺望になっている。また、東側からは東京都内が展望でき、遠くスカイツリーも見える。南側には西武遊園地や東村山市街、北側には所沢市街が開ける。荒幡富士周辺の鎮守の森の木々の成長も著しいので、360度のパノラマ風景とは言えないが、桂月が賛美した眺望のすぐれたる処であることは納得した。

山頂からの展望図 (2023年12月2日 荒幡富士)

山頂から富士山方面を望む (2021年1月1日 荒幡富士)

山頂から富士山を眺望 (2021年1月1日 荒幡富士)

山頂から東京都内を眺望 (2021年1月1日 荒幡富士)

所沢市街の展望 (2024年1月5日 荒幡富士)

■荒幡富士を周りから眺める
  荒幡富士は人工の山なので、ほぼ円錐台の形をしている。荒幡富士保存会の方々の努力で山肌の雑草は刈り取られ、庭木が所々植えられて美しい景観を保っている。ただ印象に残るのは、山の斜面のあちこちに幾つもの石碑が埋め込まれていることだ。碑文は草に隠れて文字が一部不明のものもあるが、次のようなものだ。

・八坂大神:八坂神社の祭神は素戔嗚尊(すさのをのみこと) 。合祀された氷川神社と関連がありそう。

八坂大神の石碑 (2024年1月5日)


・天地八百萬:民間に伝承された諸々の神様を祀ったものらしい。

天地八百萬の石碑 (2024年1月5日)

・三島大神:新字体だが、合祀された三嶋神社のものか。

三島大神の石碑 (2024年1月5日)

・神明大◯:合祀された神明神社のものらしい。

神明大◯の石碑 (2024年1月5日)

・天衣織姫大◯:由来不明。神衣を織る姫、七夕伝説の姫…?

天衣織姫大◯の石碑 (2024年1月5日)

・天鳴雷神◯: 雷の後に雨が降ることから水神を意味するのだろうか。

天鳴雷神◯の石の祠 (2024年1月5日)

・日枝大神 :日枝神社の祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)。合祀された旧浅間神社の祭神でもあるので、その関係か。

日枝大神の石碑 (2024年1月5日)

・武州所沢◯ 講社中:これは所沢の富士講の造納したものらしい。

武州所沢◯ 講社中の石碑 (2024年1月5日)


・登山記念碑:分かりやすい碑文。荒幡富士登山に感激した人達が建てたのか。

登山記念碑の石碑 (2024年1月5日)

・小御嶽大◯:富士山の五合目に冨士山小御嶽神社がある。富士講との関連か。

鹿島大神の石碑 (2024年1月5日)

・松尾大神:合祀された松尾神社の碑。

松尾大神の石碑 (2024年1月5日)

  荒幡富士の中の石碑の由来は様々だ。合祀された無格社に関連する石碑が多いのは築山の趣旨として理解できる。他には荒幡の浅間神社とは直接関連がなさそうな神社や、氏神や地主神、民間信仰、富士講関係、果ては登山記念等様々。お上から指示された一大事業であっても、建前も本音も全て呑み込み、参加者は奮い起ったのだろう。おおらかな日本人の感性と思う。

■まとめ
 荒幡富士の造成は富士講でなく、明治時代の神社合祀が契機であった。住民にとっては過激な宗教革新だったが、築山の参加者は新しい神道と同時に、合祀された無格社の伝統維持も念頭に大事業を成し遂げた。荒幡富士山中の石碑群を見ると、当時の人々の思いが伝わってくる。かつて大町桂月は荒幡富士の景観を称賛したが、現在でも素晴らしい。他の富士塚も訪ねてみたくなった。