キツリフネ - 穏やかだが、隅に置けない
キツリフネ(黄釣船)は、ツリフネソウ科ツリフネソウ属の1年草。世界的には北半球に広く分布し、日本の在来種でもある。全国各地の高原や川沿いなどの日陰の湿地に自生する。同じ環境下で、姿形のよく似たツリフネソウ属の2種類の花、この黄色いキツリフネと、赤紫色のツリフネソウが咲き誇る。花の色が異なるので識別は容易だが、植物体としての構造や、繁殖方法、花期などが微妙に異なり、植物の多様性を感じさせる。情緒的に表現すると、ツリフネソウは、葉の絨毯の上に多数の赤紫色の花が点在して華やかだが、キツリフネは、黄色い花の数はまばらで、しかも葉の下に隠れるように花がつくので目立たない。陽と陰の関係のようだ。地味なキツリフネだが、タフなところもある。開口部が開いた黄色い花は少ないが、花を開かずに自家受粉して果実をつくる閉鎖花が多いようだ。1年草と言う宿命を負って生存していくには必須の手段なのだろう。また、文化的な側面からは、キツリフネもツリフネソウと同様に、古典から現代までテーマとして取り上げられることはなかった。生育環境が人の居住地から離れていたり、植物内に有毒成分を含むため、敬遠されたのだろう。しかしながら、自然の中で自生する黄色と赤紫色の2種類の釣船草は、野性的で美しい独自の世界を演出する相棒のようだ。

【基本情報】
・名称:キツリフネ(黄釣船)
・別名:ホラガイソウ(法螺貝草)、英名:Touch-me-not
・学名: Impatiens noli-tangere
・分類:ツリフネソウ科 ツリフネソウ属の1年草
・原産地:日本をはじめ、北半球に広く分布
・分布:日本では北海道から九州まで、低地から山地の湿った半日陰地に生育
・花言葉:私に触らないで、デリケート
■生態
キツリフネの株は、湿地に群生する。茎には節があり、葉は互生し、葉の脇から花序が垂れ下がり、花は花柄を介して花序につながる。葉の形は卵形に近くて先端は尖らず、葉縁には緩い鋸歯がある。ちなみに、ツリフネソウの鋸歯はより鋭い。



■花
名の由来になった釣舟のような形をした花の構造を調べてみる。花弁に相当するものは、正面下方の大きな側方の花弁2枚と、上方の小花弁の1枚。花全体を支える袋状のものが下方の萼片でその先端部が蜜を貯める距がある。距の形は、先端が渦巻状でなく、緩やかに下に垂れ下がる。また、花序とは花柄を介して花はつながるが、その接点にあるのが上方の萼片だ。次に花序に注目すると、これには構成要素が繋がっている。蕾や花を始め、長円筒形の果実、そして閉鎖花を思われるものだ。


閉鎖花と思われるものは、最初は未発達の蕾のような形をしている。これが蕾になる場合は、距の部分が表面に現れて大きくなり、やがて開花(開放花)する。一方、蕾にならない場合は閉鎖花となり、この中で自家受粉し、花を咲かさずに直接果実をつくる。その時の閉鎖花は果実のような形になっているのだろう。そもそも、どのようなメカニズムで閉鎖花になるのか、または開放花となるかは良く分からない。キツリフネは1年草なので、種子を残せなければ次世代はない。それを回避するための手段として閉鎖花をつくるのであれば、自らの生育環境に合わせて、自律的にコントーロールしているのだろうか? 謎は深まる。ツリフネソウと比較すると、キツリフネの閉鎖花の割合は高いと言われている。

蕾が開放花になるまでのプロセスは、幾つかの構成要素が出現し変形しながら、最終的には釣舟形になる。蕾の初期段階では、小さな距がついたほぼ球形をしており、上下の萼によって隙間無く囲まれている。やがて、上下の萼の間が割れ、折りたたまれた花弁が顔を出す。花弁が充分に広がると、ようやく開花となる。開放花を後方から見ると、花弁の大きさが分かる。釣舟のイメージの他に、鳥が大空を羽ばたいていたり、魚が水中を泳いでいるような印象も受け、ユニークな造形だ。




キツリフネの開放花は、両性花だが、生育するに従い、雄性から雌性に変化する。先ず、開花すると、短い花糸を持つ5本の雄蕊が現れ、その葯が中心部で合着して広がり花粉を放出して、雄性期が始まる。そのうち、雌蕊が生育し、雄蕊の中から雌蕊の柱頭が頭を出す。やがて雄蕊が抜け落ちて、最終的には雌蕊だけがが残り、雌性期になる。これで理屈上は自家受粉を回避できるが、閉鎖花が多いキツリフネでは、これほどのエネルギーを使ってもこの方法は何かメリットがあるのだろうか。閉鎖花からできる種子より、遺伝的に優れた種子が出来るのだろうか。




キツリフネは虫媒花であり、昆虫が集まる。距の中に蜜が入っているので、大型のハナバチでも口吻の長い種類が有利だが、一方で、ホソヒラタアブのように小さな昆虫もやってくる。この場合は、花の奥まで入り込み、距の近くで蜜を集めているようだ。また、大きなハチで口吻の短いものは、外側から距を直接破壊し、盗蜜するものもある。これでは win-win の関係にならず、迷惑な侵略的行為だ。



■果実
キツリフネの果実は、紡錘状円筒形で蒴果だ。熟して何かに触れると果皮がクルクルと巻いて弾け、種子を周辺に勢いよく飛ばす。学名の一部 noli-tangere は、"私に触るな"の意味で、上手く性質を表現している。

■近縁種 ツリフネソウ
日本各地で自生するツリフネソウ属の中では、見かける頻度や象徴的な性格の対比の観点から、キツリフネとツリフネソウは双璧だ。詳細は別記事を参照していただくとして(ここをクリック)、両者の比較を表にまとめた。


■キツリフネと日本人
キツリフネは、日本の文化への貢献はそれ程でもないが、在来種として日本各地で長期間にわたり自生している。在来種であれば、日本のどの地域でも、古代から現代まで同じ遺伝子を持つキツリフネが生き延びているのだろうと普通は思う。ところが、その継続性について、興味ある研究成果を見つけた。信州大学の研究グループが "標高上下間での植物の遺伝的分化と、送粉昆虫が分化の維持に果たす役割" を公開し(詳細はここをクリック)、その中でキツリフネに関する生息環境による遺伝子解析結果を報告している。キツリフネは生息地の標高や地域によって、"早咲き型"と"遅咲き型"がある。長野県などの山域でキツリフネの葉サンプルの採取を行い、MIG-seq(Multiplexed ISSR Genotyping by Sequencing)法によって集団遺伝解析を行なった。その結果、開花時期の集団間変異は山域ごとに独立に生じ、同じ山域の集団間では遺伝子流動が維持されていることが分かった。但し、一部の調査地域(松本市、安曇野市)では、距離的に近い2集団の間で遺伝的分化が大きいという現象を見出したが、これらは潜在的に交配可能であることを明らかにした。
同じキツリフネでも、生育環境によって遺伝子が変化していくと言うことだろうか。どの程度の変化なら、同じ子孫を残せるのか、また異なる品種になるのか、もしかすると新種になるのか、境界線はわからないが、種の維持は結構大変なものかもしれない。縄文人が見ていたキツリフネと、現代日本人が見ているキツリフネは、果たして同じ性質のものだろか。


