お鷹の道から武蔵国分寺跡へ – 水と歴史紀行
かつて同じ企業で働いていたお爺さんたちの同期会に先立ち、ウォーミングアップのため、国分寺市内の名の知れた観光地であるお鷹の道から武蔵国分寺跡あたりを散策した。お鷹の道は自然の恵みによって生まれたものであり、武蔵国分寺跡は壮大な歴史の産物であり、異なった側面を同時に楽しめるコースだ

■お鷹の道
武蔵野台地国分寺崖線から水が湧き出て"真姿の池湧水群"を構成し、その付近の散策路が"お鷹の道"と呼ばれている。お鷹さんとは、絶世の美女と言われた玉造小町で、皮膚病に冒されて、その容色を失ったが、当地の国分寺を訪れて薬師如来に一心に祈り続けたところ、童子が忽然と現われ、小町をとある池の畔に連れていき「この池水にて身を洗うべし」と言い残し去ったが、そのとおりにすると元の美しい姿を取り戻したとの伝説がある。
国分寺駅を南下して不動橋から西に曲がると、"お鷹の道遊歩道"が始まる。蛇行した用水路に沿って植物が育ち、道は続いて行く。途中には、この元町用水の流量を継続して観測する施設があったり、国分寺市の市花のサツキをデザインしたマンホールが所々にあったりして、用水保全のための設備も所々組み込まれている。





■旧本多家長屋門と武蔵国分寺跡資料館
お鷹の道の終点に近づくと、真姿の池湧水群がある。この付近には、名主で医者でもあった本多家の建物が2軒ある。東側の1軒目の平屋の長屋門の建物は、現在はリフォームされて民家として利用されているようだ。更に進むと、2軒目の2階建ての旧本多家の母屋があり、これも長屋門形式の建物だ。こちらは最近保存修理され、内部も公開されていた。長屋門形式の質素な造りであっても、1階は両側に居室があり、2階は作業部屋などがあって広く、立派な武家屋敷風だ。庭に出ると、武蔵国分寺の七重塔推定復元模型が立っている。10分の1スケールで高さは6m程度だが、塔の組物が奈良の東大寺の大仏様を思わせる豪華さがある。更に奥へ進むと、武蔵国分寺跡資料館がある。ここには、天平時代の武蔵国分寺境内全体の立体模型を始め、武蔵の国の中で焼いた各地方の名前入りの二十数種に及ぶ瓦だとか、古地図や、振り仮名入りの易しいものから研究報告書のようなものまで幾つものガイドブックが揃い、更に説明員の丁寧な説明もあって、資料館の枠を超え、あたかも博物館に来たような気がした。遺跡の発掘は継続中だが、その成果の展示を期待している。




■真姿の池湧水群
旧本多家の長屋門の脇を北に曲がると、真姿の池湧水群がある。武蔵野台地の国分寺崖線から流れ出る湧水は、始めは階段状に小さな滝をつくり、やがて平地でも留まることなく流れていく。水路の岸辺には、ホウライシダ(蓬莱羊歯)や、花期は過ぎたがカラー(和蘭海芋)の葉が群生し、水辺の景色を演出している。源流の対岸には、水の女神である弁財天が祀られており、それを取り巻くように水底が見える程透明度が高い真姿の池が広がる。だが、お鷹さん伝説では薬師如来だったような…。




■史跡の駅おたカフェあたり
真姿の池からお鷹の道に戻ったところに、史跡の駅おたカフェがある。おたカフェは喫茶店であり、資料館のチケット売り場であり、ボランティア団体の人達の集合場所であり、物理的には狭いが、言わばこの地域の人を引き寄せる広場と言える場所でもある。このときには、数人のグループが何かを袋詰めしていた。国分寺市内の数軒の喫茶店からコーヒーを抽出した残渣を集めて、これにキノコの菌を植え付け栽培をするとのこと。袋詰めをして販売をしていたが、平茸が栽培に適しているらしい。また、旧本多家の蔵の脇には野菜販売スタンドがあって賑わっていたり、用水路に手作りのミニ水車があったり、史跡指定記念の特別なマンホールが何気なく置かれたりしていた。また、壁に沿った用水路脇には、ヤブミョウガ(薮茗荷)が咲き、ジュズダマ(数珠玉)の果実が出来始めたりと、ある程度群生した多くの植物を観賞できるのは、庭を造るように手入れをしているのだろう。






■"新"武蔵国分寺
用水路を塀沿いに進むと、武蔵国分寺に至る。天平時代に創建された官寺の武蔵国分寺が分倍河原の戦い(1333年)で焼失し、1335年に新田義貞により再建された私寺。性格が異なるので、"新"武蔵国分寺と名乗ったほうが誤解を与えないかもしれない。武蔵国分寺は真言宗豊山派の寺院で、山号は医王山で、本尊は薬師如来。国の重要文化財である木造薬師如来坐像は、平安時代末期から鎌倉時代初期の作と言われるので、おそらく他の寺院から移られたのだろう。お鷹さんは9世紀の人であり、この薬師様と縁があったのかは定かでないところが、伝説の不思議な奥深さでもある。さて、武蔵国分寺の前に出ると、正面の門から武蔵国分寺の本堂が見え、本堂の周りは万葉植物園になっていて、四季の花々を観賞できる。境内は広く、本堂の裏の小高い丘には仁王門や薬師堂もある。本堂の前には、江戸期の様式で建立され、明治期に東久留米の米津寺から移築された楼門が堂々と建っている。


■武蔵国分寺跡
奈良時代の天平年間に聖武天皇の詔により日本各地に国分寺が建立されたが、現在の埼玉県、東京都、神奈川県にまたがる武蔵の国に建てられたのが、武蔵国分寺だ。その後、地震や雷火に被災し、その都度再建して維持してきたが、鎌倉時代末期の1333年に分倍河原の戦いで焼失し、旧い武蔵国分寺の役割を終えた。その後は荒れ放題になり、次第に周辺に人家も建ち始めた。史跡の立派な礎石を自宅の庭石とする輩も居たそうな。1922年(大正11年)に、国指定の史跡となり、現在も発掘調査や保存整備が続いている。
"新"武蔵国分寺から、"旧"武蔵国分寺へと進むと、周囲よりも少し高い基壇上に金堂や講堂跡がある。金堂と講堂の広さは、ともに横37m、奥行17mとかなり広い。講堂跡は地表に礎石が顔を出しているだけだが、金堂跡の礎石群はタイル状の瓦で固定されていた。以前は、このような仕掛けはなく、随分と印象が変わった。金堂と講堂を結ぶ通路は、遺構の発掘調査に基づき、礫と瓦片を敷き詰めた構造になっていた。これを踏みしめると、かつて多くの僧侶がこの通路を往来している様子が想像できる。なお、礎石は多摩川上流の砂岩や石英質堆積岩(チャート)が使われているとのこと。





■武蔵国分尼寺跡
武蔵国分寺跡から南西に進み、府中街道とJR武蔵野線を横切ると、武蔵国分尼寺跡がある。現在は、歴史公園武蔵国分尼寺跡として、保存されている。特に目を引くのは、尼僧の住まいだった尼方跡の礎石群や、一部復元された掘立柱塀などだ。


■伝鎌倉街道
武蔵国分尼寺跡から西国分寺方面に抜ける勾配のある山道で、山林に囲まれて鬱蒼としている。かつて、この道は鎌倉から上野(群馬県)や信濃(長野県)を結ぶ主要道路であり、鎌倉幕府滅亡の際は、新田軍や鎌倉幕府軍の兵士が、分倍河原や小手指ヶ原の古戦場へとこの道を往来していたのだろう。昼でも薄暗いこの道を歩くと、中世に迷い込んだ気がする。

この散策は、2時間足らずの短いものだったが、数年前に経験したときと、かなり印象が異なる。お鷹の道界隈に喫茶店や野菜などの販売店が増え、随分と観光地らしくなった。また、旧本多家長屋門母屋の保存修理や、武蔵国分寺跡の金堂跡の瓦張りの保存法は歴史研究の成果なのだろう。文化財を持つ観光地としては、正常な進化だと思う。しかし、最後に訪れた伝鎌倉街道は中世の風情を残し、昔から何も変わっていないような印象を受けた。散策を終え、西国分寺の同期会会場に着くと、先ずはビールを1杯、それでも足らず、やはりいっぱい飲んでしまった。


