鎌倉円覚寺 – 秋の特別公開日
北鎌倉にある円覚寺の正式名称は、瑞鹿山円覚興聖禅寺で、臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位の名刹。鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権の北条時宗が元寇の戦没者追悼のため南宋より無学祖元を招聘して創建。鎌倉五山第一位の建長寺は官寺としての性格が強いが、円覚寺は北条氏の氏寺という側面があり鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。その後、室町時代には禅宗道場として、また五山禅僧による漢詩文の五山文学などで、室町文化に寄与した。しかし、 室町時代から江戸時代にかけて、度々の火災に遭って創建以来の建物を失ったが、江戸時代後期に僧堂や山門などの伽藍が復興され、今日の円覚寺の姿に近づいた。
鎌倉を物見遊山する際には、よく円覚寺を訪れる。しかし、例年11月の文化の日前後は、国宝建築舎利殿の公開や、寺宝の"宝物風入れ"で文化財を拝観できる絶好の機会だ。舎利殿については、別記事を参照していただきたい(ここをクリック)が、今回は他の主要な建物や宝物風入れについて述べる。

■山門(三門)
拝観入口の総門を通り少し右手に進むと階段があり、その奥に山門が見えてくる。山門は三門とも言われ、"三解脱門"の意味だ。これは、仏教で煩悩の束縛から開放され、自由な精神的境地(空、無相、無願の3つの状態)に到達することを意味し、現実の世界ではこの三門を通って、娑婆から仏の世界(涅槃)である境内に入ることを意味する…との解釈がある。
現在の円覚寺山門は、江戸中期の天明5年(1785年)に再建されたもの。創建以来の禅宗様式を継承しており、境内にある国宝舎利殿とは、構造は異なるがデザインは共通なものが目立つ。山門の構成は、禅宗様の正面3間の2層構造で、初層は吹放ちで上層は入母屋造。奥行きは2間で、屋根の四隅は上層は扇垂木、下層は平行垂木。上層は周囲に擬宝珠高欄を巡らし、正面に双折棧唐戸、両脇には眼像窓と呼ばれる変形した花頭窓があり、軒下には三手先の組物が連なる。この楼上には通常非公開である十一面観音、十二神将、十六羅漢が祀られている。正面の扁額"円覚興聖禅寺"は伏見上皇(1265-1317)の宸筆とのこと。山門内の通路の梁には禅宗風の彫り模様がある。山門は現在は神奈川県指定重要文化財となっているが、創建当時の様子を充分に想像させてくれる。







■仏殿
ご本尊宝冠釈迦如来坐像が祀られている円覚寺の中心的建築。仏殿は、弘安5年(1282年)創建当時から存在したが、現在の建物は関東大震災で倒壊した先代の仏殿から40年後に再建され、昭和39年(1964年)に落慶法要を迎えた。鉄筋コンクリート造りだが、元亀4年(1573年)の仏殿古図を参考に復元されたので、禅宗様式のデザインを継承している。
堂内の正面中央には丈六の本尊の宝冠釈迦如来坐像と、脇侍の梵天立像と帝釈天立像が安置されている。宝冠釈迦如来坐像は頭部のみ鎌倉時代、梵天立像と帝釈天立像は南北朝期のもので、ともに鎌倉市指定文化財。天井画の"白龍図"は前田青邨の監修で日本画家守屋多々志が描いた。また、お堂の左奥には、伝鎌倉時代末期作の達磨大師と無学祖元の2体の坐像が安置されている。なかなか見応えのある堂内だ。





■選仏場
仏殿の左にある小さなお堂の選仏場は、本来は座禅修行を通じて悟りに達した仏を選び出す場という意味で名付けられた。江戸時代の元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の簡素な建物だが、坐禅道場としてだけではなく、経堂として、また仏殿の再建前はこの堂が仏殿を兼ねていた。この程々の大きさと、型にはまらない空間が、多目的に使えるのだろう。今回の訪問でも、鎌倉彫の展覧会の会場となって賑わっていた。厳格な禅宗の七堂伽藍の中にあって、柔軟性を感じさせ、気持ちが和む場所だ。場内には南北朝時代の薬師如来立像の他、円覚寺百観音霊場一番の大慈大悲観世音菩薩や不動明王坐像が安置されてた。





■方丈と宝物風入れ
方丈は企業で言えば会議室や事務棟のようなもの。仏間や庭園もあるが、書院や研修室、台所など各種イベント開催に対応した機能を持ち、一般の人々が気軽に出入りできる場所でもある。方丈の建物は、関東大震災後の昭和4年(1929年)に新築され、平成10年(1998年)に改装された新しい建物だが、入口に円覚寺を開山した無学祖元手植えと伝えられる柏槇(ビャクシン)の古木が在ったり、百観音霊場の石仏群も居並び、南側には仏殿に通じる唐門もあり、参拝者を迎えるのに相応しい雰囲気がある。






訪問時には年に一度の宝物風入れが行われていた。気候の良いこの季節に、書物や道具類に風通しをして虫やカビを防ぐのが本来の目的だが、併せて参拝者にも寺宝を公開する機会にもなっている。参拝者には公開された寺宝一覧のパンフレットが提供された。会場は小書院と大書院の2箇所。小書院では絵画の羅漢図を中心に、仏様や高僧の絵画が公開されていた。羅漢さんといえば、川越喜多院にあるような石造りのものは良く見かける。石の塊から、羅漢さんの体の動きや顔の表情を彫り出すので、どの石像がどの尊者に相当するかは特定し難いが、そのプリミティブな表現から、大らかさや集団のエネルギーを感じる。一方、絵画の羅漢さんは細かな表現が可能であり、また各尊者を特徴づける付属物も書き込めるので、何か絵解きを見ているようでもある。ちょうど西洋の神話や宗教画のアトリビュートのようなものなのだろう。羅漢さんを眺めていると、表現の素材や技法が異なると、興感や世界観も変わってくるように思えた。

大書院の展示は、主に書状だ。北条時宗が宋から優れた禅僧を招請する書状(その結果、無学祖元が来日)とか、円覚寺への寄進状とか、皇室からの勅裁書とか、所謂公文書だ。そのため、原稿用紙の升目に楷書で揮毫され整った書式となり、最後に花押まである。そして、多くは重要文化財に指定されてる。このため、現代人でも、歴史的背景を考慮しながら読むとある程度内容が推測できる。この点は奔放な文学作品との相違だ。会場では書状に見入る人が多く、書院に入れない人達の待ち行列がとぐろを巻き始め、若いお坊さんが壁に沿って進むよう促す声が虚しく響く。まるで、都内の博物館の人気のイベントを見学している雰囲気だ。しかし、円覚寺の歴史上の出来事をたどるようで、なかなか面白い企画と思う。


■洪鐘と弁天堂
仏殿から南方にある小高い丘に、洪鐘(おおがね)がある。舎利殿と並ぶ円覚寺の国宝だ。鐘楼に辿り着くまでは、長い急階段を登る。木々のトンネルを抜けると、目前に弁天堂があり、其の奥に鐘楼があり、そこに洪鐘が吊るされている。洪鐘は鎌倉で最大の梵鐘で、大旦那は九代執権北条貞時、鋳物師は物部国光、銘文は西澗子曇の撰。大きいが故に製作には苦労したようで、三度目の正直で完成した。総高260cm、口径142cmで、鎌倉時代の代表的な形態。洪鐘の完成後に、江の島の弁財天を勧請して弁天堂を建立した。傍らの洪鐘弁天茶屋からは南西方向にJR横須賀線を挟んで谷戸が望め、その谷間に東慶寺や浄智寺がある。





久し振りの円覚寺訪問だったが、秋の特別公開日に焦点を合わせたためか、大変充実した内容だった。境内は基本的に自由に散策できるが、制約がつく修行の場である舎利殿内部の様子を、円覚寺が専門家の解説付きでYouTubeにアップしているのは素晴らしい配慮だ。今回、宝物風入れで公開して寺宝も同様にインターネット上で公開していただくと、より理解が深まると同時に、混雑も解消できるのではと思う。