円覚寺舎利殿 – 正福寺地蔵堂とルーツを共有
長年の懸案であった鎌倉の円覚寺舎利殿を訪れた。狭山丘陵の麓にある東村山市の正福寺地蔵堂と同じ禅宗様方三間裳階付仏殿建築であり、瓜二つと聞いていたので、是非この目で確かめたいと思っていた。円覚寺は何度か訪問したが、国宝の舎利殿だけは公開日が限定されているので延び延びになっていた。JR横須賀線の北鎌倉駅を降りると、そこはまさに円覚寺の門前。舎利殿は山門から奥まった谷戸の谷間にあり、塔頭の正續院に属する。正續院の山門をくぐると、目の前に広場があり舎利殿前門が控えている。ここからは舎利殿の入母屋造の屋根が大きく見え、期待が膨らむ。瓦に北条氏家紋と圓覚寺の銘のある脇門をくぐって舎利殿境内へ入ると、漸く舎利殿全景を捉えることが出来た。境内は狭いので、舎利殿の姿は下から見上げるようになるので、少し均衡が取れない。だが、見事なデザインであり、骨格は正福寺地蔵堂と同じだった。




■正面
現在の円覚寺舎利殿は創建当時のものではなく、永禄6年(1563年)に鎌倉の西御門にあった鎌倉尼五山筆頭の太平寺の仏殿を移築したもので、建立年代は不明。構造や規模が同じ正福寺地蔵堂が室町時代の応永14年(1407年)の建立とされたことから、同じ頃(15世紀前半)の建築と考えられている。円覚寺舎利殿と正福寺地蔵堂と正面から見て比べると、明らかな相違点は裳階の屋根が、前者は杮葺きで、後者は板葺きであること位。おそらく過去に修理した際に変更したのだろう。正福寺地蔵堂については別記事を参照(ここをクリック)。


■裳階の外回り
裳階とは、上部の方三間、下部の方五間の構造物を接続する庇のようなものだ。禅宗様方三間裳階付仏殿建築は基壇上では5間に見えるが、正面の両端にある花頭窓部分は裳階部分に属し、残り3間が本体で中央が桟唐戸、その両隣が花頭口となる。これらの上に、横に貫くように波形欄間(弓欄間とも言う)があり、その中央に宝珠がある。波形欄間の上には、柱に支えられる水平の部材である貫があり、その四隅には渦巻紋様のある木鼻が飛び出す。これらの構成要素は、は何れも禅宗様式を特徴づけるデザインになっている。また、堂内には仏牙舎利(仏陀の右奥歯)を納めたと伝えられる厨子が安置されている。




■裳階
裳階は上層の屋根を支える構造物だが、建物の高さ方向を2段階にすることにより、建物をより重厚に感じさせる視覚的効果がある。そのために裳階は屋根よりも広く、平らに、端部の反りを小さくして安定感を持たせている。また、裳階の軒下は狭いので、組物は柱のある部分は出三斗、柱のない部分は平三斗と簡素な構成だ。軒裏の垂木の配置は屋根裏と同様の放射線状の扇垂木ではなく平行垂木だ。正福寺地蔵堂の場合も同じだが修理の際に容易な方法にしたのかと思ったが、円覚寺山門(三門)の裳階もやはり平行垂木なので、これが禅宗様でも標準なのだろう。



■屋根
最上段の入母屋造の杮葺きの屋根は、構造や装飾に工夫が多く、荘厳な雰囲気を与えている。屋根は高さがあり、四隅の反りも大きく、全体として上向きのベクトルが働いているように感じる。四隅の屋根裏の垂木は放射線状に配列して支点を多くした扇垂木を採用し、これにより大きな反りを実現したのだろう。柱と柱の間にも、尾垂木付きの三手先の組物を密には配置し、重厚な雰囲気を醸成している。屋根と裳階の間の空間は、最も緻密で豪華な部分だが、基壇上の裳階の外回り部分の簡素な構成とは対照的だ。



■結論、その他
今回の円覚寺舎利殿訪問の目的は、建築構造として正福寺地蔵堂と相違がないかを確かめることだった。結論としては、本質的な相違はないと思う。日本の中世には、禅宗様方三間裳階付仏殿建築は多数出現したが、その中でも、この2つは同じルーツを持つものだろう。しかし、これらが建立や移築されて既に400年以上が経過し、人々との関係はそれぞれ独自の発展を遂げた。円覚寺舎利殿は臨済宗の僧侶の修行の場として法灯を守り続けている。一方、正福寺地蔵堂は千体地蔵堂とも言い、祈願者は一体の地蔵を持ち帰り家で祀り、願いが成就するともう一体添えて奉納する風習があり、地域信者の信仰の場となっている。双方とも現在に至るまで、信仰を支える基盤として禅宗様式の仏殿建築は存在している。これからも、これらは神奈川県と東京都の唯一の国宝仏教建築としても、人口に膾炙されていくのだろう。
舎利殿の公開は、例年年始、5月連休、文化の日前後に行われる。このときにも、残念ながら舎利殿内部の見学は出来ないが、円覚寺はYouTubeに"【国宝:解説】舎利殿における禅宗様を巡る旅"をアップロードしている(ここをクリック)。これによると、堂内の様子もよく説明されていて、正福寺地蔵堂と同じ構造だと確認できた。

